今日も畳の上でゴロリ・・・

2018-06-16

今日も畳の上でゴロリ・・・  

『日本人のことばと漢字はおもしろい』

笹原宏之「日本人と漢字」書より、中国は漢字の字は音にこだわり、日本の漢字は字の意味にこだわると言われています。例えば、エビと言う字は、蛯は姿が曲がっているから老を入れた言う説。また、卵の漢字は味付け前に書く字は 半熟卵・卵かけご飯と書き、また、味付けや調理後に書く字は二文字、玉子と字を使っている。ゆで玉子・玉子焼きと使い分けをして字を使っている。お隣の中国では卵は卵で一つである。また、アメリカの英語なども一つ字である。特に面白いのは魚と言う字である。それは、魚編は多くあり、それも魚に多くの名前を付け種類や捕れた季節、地域も解ります。例えば鮭は南の方では捕れません。日本人には魚を見るより字を見て判断することが日本の文化でもあります。

ところで漢字はいつの時代から字が発生したかと言うと、白川先生の話しからでは、漢字の発生は3300年前、中国、殷(イン)時代発生し、周(シュウ)時代に受け継がれ現在の漢字へと繋がっていると言われている。殷の時代は甲骨文字と言い骨に文字を刻んでいった時代であった。それから周の時代は金属や器に刻んでいく、それとともに生活様式が変わるにつれて徐々に漢字は変化をして行き、竹に筆で書き、また、その後、清の時代には紙に書くようになったと言われています。その字の始まりは神と繋がりと言われ、また、神とへの占いとも言われております。漢字の広がりは中国近隣の国、ベトナム、朝鮮半島、日本へと渡ってきたと言われております。その中、日本人は漢字を我がものとして『国字』として変容していったのとも言われております。

日本では当時から字の解釈などは中国や韓国とは大きな違いがありました。それですから中国には無い漢字が多く作られ、先ほども言いましたが日本は漢字には意味を中心で考え、漢字が発生した中国では音が中心として作られてきたと言われております。日本の場合は意味が中心である為に色々な漢字が新たに出てきたのも確かです。それに伴い日本の風土・土壌の違いで、日本、日本人の漢字として変化して行ったと言われております。今でも日本人なら漢字を見れば誰もが字に対してその意味が解るはずと思います。ところが漢字発生の中国では音を中心に考えていますから、日本のように字を見て字の理解は難しいと言われています。でも中国では字の解釈は文章で理解していると言います。また、韓国のハングル文字も同様で字で解釈をしていると言われています。現在では漢字文化は日本と中国しかありません。

戦後(1945年)後、ベトナムや朝鮮半島、韓国、北朝鮮は漢字を捨てました。ところが近年、韓国ではハングル文字は同じ発音で意味が違うという事で漢字に戻そうとしていると言うことを聞きました。また、中国では同じ様に漢字を簡略して本来の漢字を見ても意味が解らなくなってしまったと言われています。中国は、元々は音で理解しているので漢字の意味は関係ないのでもあるが、近年日本に来る若い中国人にとっては日本の漢字が、中々理解がしづらいと言っているようです。日本の漢字には意味があるという事です。言葉がそのまま字になり、理解しやすいのが日本のことば漢字であります。大事にしましょう。また、藤原正彦先生がいつも言っております。日本人には英語や外国語より日本語は一番大事だと言っております。それは情緒や形が大事であると言っております。

今日も私は畳の上でゴロリ・・・

笹原宏之「日本人と漢字」書より 早稲田大学教授 

白川静「甲骨文字」書より1923年生2006年10月没 (立命館大学名誉教綬)

藤原正彦 (御茶ノ水女子大学名誉教授)『祖国とは日本語』『国家の品格』書より

 

表示と消費

2018-05-24

表示と消費                   記 30年5月24日

 最近の出来事、「おじちゃん、タケノコをもらっ来たんだよ」と近所の子供が私に話しかけてきました。「大きいタケノコだねどこで買ったったの」「うん、ママさんの友達に貰ったんだ」と話しかけられました。そのお母さんは、近所の人から貰い、また、その人からのおそそわけだと言うのです。「今夜はタケノコご飯ですね」と私が言うとそうです。お母さんも子供も喜んでいました。

今日はこんな話をします。最近の物造りは、ごまかし(逸脱)が多いのを新聞やマスコミなどから報道されております。それも大手企業など、製品(品質規格)の逸脱が多くみられ、消費者にとっては何を信じてよいのかわからなくって来た時代です。本来、日本には規格と言うものがあります。この規格も1946年(戦後)から始まったものです。例えばJIS(日本工業規格)その後5年後にJAS(日本農林規格)という基準規格が消費者に信頼(安心、安全)できる製品として国は認めたのです。規格検査は一定の基準を満たせなければ合否を付けることはできません。それは国や企業団体、消費者団体などが安全安心して使えるものとして認可、許可を出したのであるから、本来は約束を守らなければならないのですが、近年このような事がどの企業、産業界にも多く見受けられます。

どうしてこの国の経営者はこのようになったのでしょうか。本来日本人は信用、信頼という言葉を大事にして来たのに、経営者はただ会社が儲ければいいと言う事でしょうか。消費者や従業員また、その家族の為にとは考えないのでしょうか。今、周りを見れば、例えば、通販の場合「今だけ安い」とか「先着何名」「おまけが付いている、通常価格より安い」とか消費者をあおる広告で蔓延し、そこには品質基準のことなどは一切触れておりません。つい最近まで日本の社会には「丈夫で長持ちをします」と言う言葉があったはずです。その言葉はどこに行ったんでしょう。企業もつい最近まで消費者側についていたはずですがつい6.7年前から企業は株主側に立ち、消費者のことなど考えなくなったのではありませんか。今こんな言葉があります。「優良表示」と「有利表示」ここには誤認表示が当てはまるのです。どちらも消費者にとっては厄介な問題です。

これは信用できる商品か製品か、また、信頼できる企業か生産者か、これを決めるには個人消費者かもしれませんが、本来、国が基準を示すことが大事と思います。その中、通販などは「個人の感想」と言う言葉を入れ、消費者を悩ませ、販売をしている状況です。物造り(製造者)は「消費者への思い」や「魂」が入っていることが大事ではありませんか。

品物や食べものを買い求める時には自分自身で信用できる製品なのか、この店の物は大丈夫かを見分け(目利き)出来る人になりませんか。『安価な物にはけして良いものは無い』と思った方がいい。『品物を買うことや仕事を頼む』には身近な地域にしましょう。

それは『安心、安全』を同時に買えますので、これが今言われている言葉の「スローフーズ」(地域生産し、地域で消費、安心安全解る)です。その反対がファーストフーズです。(均一、利便性)あなたはどちらを取りますか。

タケノコは安心して食べれますよね。

 

 

 

「『日本すごい』に異議あり!ニューズウィークより

2018-05-22

ニューズウィーク

本誌5月8日発売号(2018年5月15日号)「『日本すごい』に異議あり!」特集

デービッド・アトキンソン(小西美術工藝社社長)より

「ニューズウィー...」の画像検索結果

<本来のすごみである「魂」を忘れ、「上から目線」ばかりの茶道――。「宗真」の茶名を持つデービッド・アトキンソン氏が、人口減少をキーワードに「日本すごい」論に警鐘を鳴らす。世界に誇る日本の文化・スポーツ・技術は、実は空洞化しているのではないか。本誌58日発売号(2018515日号)「『日本すごい』に異議あり!」特集では、日本が本当に輝くための6つの処方箋を知日派らが提示する>

国宝などの保存修理を行う会社を経営していることもあり、行く先々で「日本文化がすごい」という声を聞く。

確かに日本文化にはすごみがある。書や華(はな)などに生涯をささげる修行者の作品は超一流。一挙手一投足にオーラが漂い、作品には深みが宿る。日本文化の根本はその精神性、「魂」にある。

とはいえ、あまりに無邪気に「日本はすごい」と自慢する人に違和感を覚えることも多い。あなたが自慢する当の文化に魂はあるのか、と。所詮は修行者の動作をマニュアルに沿ってまねただけの「仏作って魂入れず」。中国産漆を塗った「京」漆器。世界遺産登録をしようとしながら糸の98%が中国産で、日本人の手先自慢をしながら仕立ての大半が東南アジアの着物.。中身を伴っていない「文化」が多いのが実像ではないだろうか。

そう思うに至ったのには茶道との出合いがある。自宅の和室を使った趣味ができればと入門し、今では茶名「宗真」を頂き、のんびりとたしなむなどお茶との付き合いは20年になる。

茶道を選んだ理由は主に2つある。日本文化の多くは師と一対一、あるいは自己と向き合って深めるのに加えて、一つのことを極める、いわば「縦」の文化だ。その点でお茶は違う。書、華、香、懐石、菓子、焼き物や漆器などが茶室に集う。日本文化を「横串」にできるのだ。お茶は総合芸術とよく言われる。これが魅力の1つだった。

もう1つは、書や華などと違い、客に給仕するところにある。茶道の魂は人との交流、サロンの場を作ること。この文化は非常に深い。小さな茶室に聖地を生み出すために、先人は心を尽くしてきた。「降らずとも雨の用意」「相客に心せよ」という16世紀の千利休の言葉にその精神は残っている。季節や客の個性などその時々に最適な場を作るために、お点前(てまえ)や茶、器といった「道具」を一つ一つ吟味する。

しかし、総合芸術を実現することは極めて難しい。1人の人物がお茶だけでなく、お花も書も極めるのはほぼ不可能。お花はそれを極めた人にやってもらい、掛け軸に書かれた禅語はお坊さんに語ってもらう。たけている人が集まって、総合芸術となり得る。

人口ピラミッドが招いた変質

では、今の茶道に魂はあるのか。茶会を重ねるたびに疑問は深まった。特に一度に数十人の茶席を1日に十数回、計数百人を招く大寄せ茶会は客をもてなすどころか、さばくだけの場だ。

器に込められた意味や来歴を顧みることなく、「冬だからこれ」「これは夏に使えない」と全てがマニュアル頼みで整えられる。「聖地」にいるうちに、自分たちを日本文化の聖人、真の日本人であるかのように勘違い。他人を「書が読めない」「お花が分からない」「今の日本人は正座ができない」とあげつらい、「今の日本は文化度が低い」と嘆く。精神を置き去りにし、目線だけが高くなったようだ。

残念なことに「上から目線」は外国人にも向かう。「正座して」「頭を下げて」「2回回して」――訪日観光客の体験の場でそんな声を投げ掛け、たまに外国文化をけなしながら、「茶の素晴らしさ」を講義する風景はよく見られる。だが外国人は単においしいお茶を飲んで、日本との一期一会を楽しみたいのだ。魂に触れ、その空間を味わい、粗相にならない程度に作法を押さえたいだけだ。そもそも稽古の場と、素人をもてなす場は違うはずだ。

茶道が利休以来のもてなしの魂を失った転機は、明治維新と第二次大戦にあるかもしれない。そもそも上層階級に支えられたお茶は、明治維新で封建制度という支援者を失った。その生存戦略として上層階級の趣味から、大衆にも分かりやすい「茶道」へマニュアル化。それまでは武士があぐらをかいていたのが女性が主流となり、客でも正座が決まりとなった。雇われて裏でお茶をたてていた家元などは表舞台で「先生」となり、「教授」などの免状もできた。

こうしてお稽古と化した茶道が迎えたのが、戦後の人口増加社会だ。家元を頂点としたピラミッドが膨張し、増加する弟子に対処するにはマニュアルでさばいて稽古するしかない。大寄せ茶会のような光景は人口増がもたらしたものだ。今の茶人が総合芸術をかさに着て、お花、書、お香など本来深い文化をかじった程度であたかも達人のように自慢をする姿は見苦しい。かく言う私自身も、偽物の書の前に深々と頭を下げたり、専門家に披露して恥をかいたりしたこともしばしばだ。

生存のため道を強調したのを忘れた、魂の宿らないマニュアル作法は総合芸術でも文化でもなく「緑の宗教」だ。今の日本文化に関して危機感を感じるのは、あまりにも中身を伴わないことだ。「日本家屋がすごい」と言う人の家に畳もない。「日本の神様がすごい」と言う人の家に神棚があるわけでもない。「伝統行事がすごい」と言う人は他国の宗教行事たるハロウィーンをやるが門松は飾らない。日本文化を知らないで自慢だけはやめてほしい。

自分は面倒だからやらないが、1億数千万人の誰かがやってくれる――。こんな他人任せも、人口増加社会の特徴だ。もはや人口減少でそんな時代は終わった。日本文化を誇って発信したければ、自分でやるしかない。「すごい」と言うなら、自らの手で「すごいもの」を作り出す。そうしなければ、日本文化は自慢ばかりで誰にも担われないまま、衰退してしまう。お稽古ではなく、日本文化を守るため真に極めるべき時代が来ている。  デービッド・アトキンソン(小西美術工藝社社長)より

追記

日本人として、デービッド・アトキンソンさんの考え、貴方はどのように考えますか ?

せめて、日本人として畳は敷き込みましょう。!!

 

 

「符丁」

2018-05-17

「符丁」                                                   記 穴水美樹

 今日の話は、職人や同業者の人が使う言葉「符丁・ふちょう」です。ご存知ですか、商売仲間や同業者の合い言葉です。符丁言葉はどこから出たと言うと、いつも使う道具名や作業内容を使うことで一般の人には解らないようにしているのです。昔からお客様にも色々な方がいますので面と向かってはお客様を怒らせてしまいますからある意味職人同士のうっぷん晴らしの意味もあったようです。例えば私達、畳屋さんでは女性を(ハバ・小物差し)男性を(ナガサ・大物差し)お金を(シメイタ・作業)と言います。また、家族的商売をなさっている内々の言葉としても江戸時代から使われて来たと言われています。

今でも魚市場や野菜市場等々の(セリ)符丁で値段を決めています。先日の朝、魚屋さんの前を通った時に聞きました。ひと昔の商売人でしたら皆、符丁で会話を交わしていたのを思い出しました。我々、職人さんも同じでみな使っていました。珍しいのは落語家さんも今でも使っているようです。符丁には異業種も同じ符丁使うことがあり、例えば床屋さんと落語家、畳屋さんと下駄屋さんなのは同じ符丁を使います。昔こんな笑い話を聞いたことがあります。職種が違っていても符丁が同じですから、目の前のお客様の悪口を言っているように聞こえケンカになったこともあるそうです。また、かずの数え方も同じですから、値札が無い時代、店主はお客を見て同じ品物をちっと割高な金額を符丁で言うと店員は先ほど買ったお客さんと違いを符丁で言い返せば、お客様は符丁で安価な値段を返し負けてもらった言う話を聞いたことがありました。

また、当時は外仕事の職人は客様の家に伺って仕事をしましたので「符丁」は大事な言葉でもありました。何故「符丁」を使うのか親方や職人さんに聞いた覚えがあります。「お客様を一番大事な人」と考え、知られたくない事や迷惑を掛けないことが職人の思いで、また、それが背景でもあったようです。現在では、ほとんど職人は符丁使われなくなってしまいました。理由は徒弟制度(住み込み)や低賃金(こずかい程度)無くなり給料制度になった為と教える時間が無い、また、解らない言葉を使うと聞きているお客様への不安作り信頼関係を無くす為といいます。

符丁とは、「垣根」領域かもしれませんね、また、他人様の家に土足でズカズカと上がらないということかもしれませんね。今思うのですが、私は、符丁は大事な言葉と思います。人様の領域に入らないという事は・・・

 

追記 

昔の職人は符丁だけで一日を過ごせましたよ、私は、ほとんど忘れましたが・・・

いつも思うのですが、私の解釈ですが『伝統』とは昔から言い伝えられたこと。『文化』とは周りにあるもの、また、今遣ろうとしていること。これが伝統と文化の違いと思います。

大事にしましょう。『伝統と文化』を・・・   畳の上で考えてみませんか。

 

 

 

 

職人の見習い一日 

2018-05-16

職人の見習い一日 (外仕事でのこと)          記 穴水美樹

 

 徒弟制度の時代の話です。職人の見習い(小僧)は、一年中朝5時頃起き、当日の仕事の段取りをするのが見習い、小僧の仕事でした。当日仕事の段取りは前日に親方や兄弟子に言われ、その日使う道具や材料を用意するのが役目でした。外仕事の場合は朝6時過ぎか、7時頃までには店(仕事場)を出て行くのが当時の職人でした。それはどこの職人さんもみな同じでもありました。お客様の家に着くのは少なくても7時半までには伺い、作業の用意、見習いは親方や職人さんが仕事をやり易いように段取りするのが見習い、小僧の仕事でありました。当時はお客様に伺いすると必ず朝は茶が出て飲み終ると直ぐに仕事にかかる時代でもありました。

朝茶が出るのは昔から朝はあわただしく怪我を「難」しないようにする。また、気持ちを落ち着けさせるようにとする為と親方や職人さんに聞きました。ましてや、お客様の仕事で怪我をしたならばお客様に迷惑をかける為でもあったようです。そのことから当時はどこの家でも朝茶は出たようです。朝茶には必ずお茶と梅干が出てきたものです。お茶と言えば、昔の職人は全て手仕事の為に多汗かき体を使うので午前10時と午後3時のお茶の時間は大切な時間でもありました。要は気分直しで、一服[タバコ]時間でもありました。職人の仕事は根拠がいる仕事が多いのもですから一服は欠かせない時間でもあったということです。

また、お昼は必ずと言っていいほど12時、決まった時間に取りました。当時の弁当箱はアルマイトで出来、厚さ5、6ンチ 幅15センチ位で長さ20センチ位でした。当時の見習いは昼飯の時間はとても楽しみでした。お客様からは漬物や味噌汁、また色々な「おかず」出してくれましたのでこれもまた、見習いに取っては楽しい時間でした。むろん冬と夏とはいわずお茶は必ず出して頂きましたので、有り難かったのを覚えています。お昼には必ずと言っていいほど、お客様から色々な「おかず」などを出してくれましたからそれも楽しみでもありまし、喰いじがはる年頃の為に、お客様から頂けるもの全てが嬉しかったこと未だに忘れません。また、出していただける「おかず」もその各家庭にも違いがあり親方や職人さんなども喜んで食べていたことを今でも覚えています。

昼飯が終ると直ぐに、見習い、小僧は親方や職人に用を言いずかられ昼休みもなく過ごしたものです。特に冬は日が入るのが早いのでお天道様とにらめっこです大変苦労をしたのを覚えています。そうそう小僧見習いにとっては大きな楽しみがありましたそれは午後3時のお茶の時間です。若い小僧見習いに取っては一番嬉しくて楽しい思い出です。それはお客様が必ずと言っていいほど3時のお茶の時間には、店屋(出前)ものを取ってくれる時代でした。例えば「天ぷらそば、きつねうどん」また「カツ丼、天丼」など若い小僧に取っては嬉しくてたまりませんでした。今でもあの腹が減った時代は忘れません。仕事のきついことよりお腹が減ったことのほうが辛かったことを覚えています。 あの時代は今でもいい時代と思い出します。毎日、毎日親方や兄弟子に怒られました。また、近所の方や知り合いに励まされ一つ一つ仕事を覚えていった時代です。あのような環境があったからこそ今の時代あるということ思い出されます。

職人は時間を守り、お客様へは、ヘリ下り、上下を築かい、今でも言う「おもてなし・しつらい・思いやり・気配り」など職人は皆心得ていたはずですし先代たち職人が築き上げたものです。良い時代だったはずです。

追記

そうそう職人の世界には、食べるときの順序があります。見習い小僧は親方や兄弟子やお客様のご主人が口にしてからではないと見習い小僧は食べてはいけないと決まりがありました。また、親方や兄弟子が食べ終わったら直ぐに見習い小僧は食べるのを辞めなくてはならない決まりがありました。お茶を注ぐのは、先ず、お客様から親方兄弟子と注ぐ決まりがありました。見習い小僧は口につけるもの全てが最後で、食べ終わるのは一番初めという事が決まっておりました。全て小僧は最後で最初!

いつも思うのですが、これは私の解釈ですが

『伝統』とは昔から言い伝えられたこと。

『文化』とは回りにあるもの、また、今遣ろうとしていること。

これが『伝統』と『文化』の違いと思います。

大切にしましょう。日本の『伝統』と『文化』を・・・・

 

 

 

 

 

 

 

さきやま古墳に行ってきました。

2018-05-01

埼玉古墳群に行ってきました。

住所 埼玉県行田市佐間  駐車場 有(数か所)ます。

地域グルメは「行田焼きそば」・「フライ」・「ゼリーフライ」のお店が沢山あります。また、のぼり旗が多く見受けられます。

私達老夫婦は焼きぞばの小を注文しましたが食べきれず残しました。フライは私の子供のころのおやつと同じような味で懐かしく思いだました。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
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丸墓山古墳から望む稲荷山古墳(左)・将軍山古墳(右奥)・円墳群跡(右手前)

埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は、埼玉県行田市にある、9基の大型古墳からなる古墳群。「埼玉古墳群 -古代東アジア古墳文化の終着点-」として世界遺産への登録を推進している。

概要[編集]

県名発祥の地とされる「埼玉」の地にあり、前方後円墳8基と円墳1基の大型古墳が残る全国有数の大型古墳群である。現在は国の史跡として整備がなされている。

なお、かつては大型古墳の周りに陪臣の小型古墳があり、円墳35基、方墳1基からなっていた。しかし、昭和初期に周囲の沼地干拓で取り壊されてしまっている。

歴史[編集]

埼玉村史跡入口の碑(1939年建立)

各古墳の歴史については、主な古墳の各項リンク先を参照。

日本書紀』によると534年安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかという説[要出典]があるが、まだ不明確な点が多い。

丸墓山古墳下の石碑。指定地の村有化のための保存運動を記念して建てられた。(1940年建立)

古墳群は5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられている。

この地に古墳のあることは、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』や『忍名所図会』(おしめいしょずえ)に記されている。また、付近に多くの古墳が存在したことは、「百塚」という字名からも知られる。 1893年(明治26年)には将軍山古墳が発掘された。1935年(昭和10年)の埼玉村古墳群調査で、前方後円墳11基、円墳11基が確認されている。1938年(昭和13年)8月8日には、9基の大型古墳が国の史跡に指定された。 1966年(昭和41年)以降、整備がはじめられ、1968年(昭和43年)に「風土記の丘」整備に先立つ航空写真測量で墳丘・濠の影(クロップマーク)が認められた[1]。同年8月に稲荷山古墳がその事業の一環として発掘調査された。この時出土した鉄剣から、1978年(昭和53年)9月の保存処理中に金象嵌銘文が検出されたことで、この古墳群が日本国中に知れ渡ることとなった。 その後、さきたま風土記の丘という公園として整備され(現在のさきたま古墳公園)、古墳のほかに移築民家(旧遠藤家、旧山崎家)、さきたま史跡の博物館、はにわの館(実際に埴輪を作ることができる)などがある。

埼玉県や行田市を中心として世界遺産への登録を目指しており、周辺の整備などを実施している。また、世界遺産登録の前段階として、国の史跡から特別史跡に昇格も視野にいれている[2]

主な古墳[編集]

埼玉県では最大規模の古墳。

鉄砲山古墳のすぐ東には浅間塚古墳があり、埼玉古墳群に含まれる場合がある。

埼玉古墳群の前方後円墳は、方形の多重周濠を持つことが明らかになっている。前方後円墳の周濠の多くは盾形をしており、方形の周濠は他に例が少なく[3]、埼玉古墳群の特徴の一つとなっている。また稲荷山古墳・二子山古墳・鉄砲山古墳・将軍山古墳の中堤に造り出しが付く点[4]、丸墓山古墳を除くと葺石が認められない点[5]、古墳の主軸がほぼ一定の方向を指している[6]などの特徴が認められる。

その他の古墳[編集]

円墳址(埼玉7号墳)大芝生広場として整備される以前は小円墳が8基あった。

梅塚古墳址(埼玉2号墳)

風土記の丘として整備される以前は一帯が田畑であり、古墳はまったく整備されず野ざらしであった。そのため、小型のものの多くが明治末から昭和にかけて田畑や埋め立て用土として開拓された(さきたま古墳周辺は沼地が多く、農地には適していなかった)。

  • 戸場口山古墳 - 方墳。1918年大正7年)に消滅。現在は宅地で地中に周濠の痕跡が残る。
  • 埼玉1号墳(天王山古墳(てんのうやまこふん)) – 円墳。
直径27メートル。築造年代は6世紀前半。頂上部に八坂社と神木杉があったが、1908年明治41年)に合祀とともに伐採。古墳公園として整備される以前は宅地であった。
  • 埼玉2号墳(梅塚古墳) – 円墳。麿塚古墳(まろづかこふん)とも。
直径24メートル。築造年代は6世紀前半。明治初期には大きな白梅があったが、1878年(明治11年)の冬に暴風によって倒れ枯失。
  • 埼玉3号墳(ボッチ山古墳) – 円墳。
直径13メートル、高さ2メートル。築造年代は6世紀前半。水鳥埴輪出土地。
  • 埼玉4号墳 – 円墳。直径18メートル。築造年代は6世紀前半。
  • 埼玉5号墳 – 円墳。直径26メートル。築造年代は6世紀前半。
  • 埼玉6号墳 – 円墳。直径22メートル。築造年代は6世紀前半。
  • 埼玉7号墳 – 円墳。直径22メートル。築造年代は6世紀前半。
  • 山宮古墳(さんぐうこふん) - 円墳。
将軍山古墳と二子山古墳の中間にあった。1906年(明治39年)に開拓。
  • 天祥寺裏古墳 - 円墳。
直径40メートル。築造年代は6世紀の中頃。二子山古墳の西にあった。1981年昭和56年)の排水路工事の際に発見。
  • 大人塚古墳(うしづかこふん) – 前方後円墳。
高さ3メートル、全長45メートル。築造年代は6世紀後半。渡柳地区の西端にあった。1913年大正2年)に開拓。1914年(大正3年)に埴輪数点が出土した。行田市No.95遺跡はこの古墳址とみられる。
渡柳地区の西側などに存在していた小円墳十数基(現在はいずれも開拓され消失)と、この大人塚古墳を含めて、「渡柳古墳群(わたりやなぎこふんぐん)」として区別することがある。
    • この他、稲荷山古墳の東側などにも小円墳が存在していたことが伝聞や発掘により判明している。

『武士道』とは

2018-04-20

『武士道』とは

 新渡戸稲造は、明治のあの時代、日本の伝統文化は西洋の道徳・宗教は遅れていないことを証明した人である。『武士道』の考えは封建的時代の武士社会の考えでもあるが、今日でも日本人の生活の中に道徳心として残っている。また、西洋の道徳はキリスト教と騎士道、その精神が残っており、やがて騎士道は無くなり、日本と違い紳士道として残っている。(ジェントルマン⇒紳士) 新渡戸稲造の『武士道』を読むと、世界に日本、日本人という国を知らしめたのである。時は明治、理解されない日本、日本人の心を世界中に日本人の本質を伝えたかったという思いが見えてきます。

新渡戸稲造は、アメリカ人の女性と結婚し、国際的にも日本人として多くの名誉を持ち、国際関連事業の仕事をして高く評価された。また、ユネスコ創立には第一人者として国際的にも認められている。稲造は生涯こんな言葉を残している。世界の国々には、他民族、他文明、他宗教があることを認めなければならないと言っている。また、人間は全て人間だから同じであるとも言っている。「人類は一つ」であるすべてを認めるべきであるとも言っている。話は戻ると現在『武士道』を右翼的考えともいわれるが、稲造の言うとしたことは、日本人は日本人らしく「自信の為、人の為、国の為」道徳心に生きることを世に伝えたかったのである。『武士道』の考え方を現在は少し間違った考え方、右翼思想と思っている人が多い。現在、日本社会は損得ばかり考え、日本人が持っていた道徳心を忘れています。一度『武士道』を読んで見ませんか。外国では、日本、日本人の考えが解らないときには参考書として世界中の全ての著名人は『武士道』を読んでいると言われています。

新渡戸稲造 『武士道』   奈良本達也翻訳より

『武士道』とは「人に勝ち、自分に克つ、強靭な精神力を鍛える」こと

義』とは義理、「正義の道理」

「正義の道理」私たちにとって、無条件に従うべき絶対命令であるべきではないのか

「義理」は本来義務いがいのことを意味していない。

『勇』「勇気」はこころの穏やかな「平静さ」によってあらわされる

まことに「勇気」のある人は、常に落ち着いて決して驚かされたりせず、何事によっても「心の平静さ」をかき乱されることはない。

『仁』はやさしく母のような「徳」である。「慈愛」は女性的な性質である「やさしさ」と「諭す力」を備えている。私たちは「公正さ」と「義」で物事を計らず、むやみに「慈愛」に心を奪われてしまうことのないように教えられている。

『礼』は「長い苦悩に耐え親切」で人を「むやみに羨まず」「自慢」せず思い上がらない。自己自身の「利」を求めず容易に人に動かされずおよそ悪事というものを「たくらまない」ものであるといえる。

「武士の心」とは 「志」

慈しみの心を持って常に相手を思いやり敬いながら、世界中の民族の共存共栄を計る。

i msorry (すいません)  

thank you (ありがとう)

i ioveyou (愛しています)

この三つの言葉が、世界中の民族の共存共栄を計ると稲造は言っている。

新渡戸稲造 『武士道』 奈良本達也読書より

追記

最近、色々と社会を揺るがしている日本の政治家は日本という国をどのように考えているのかわかりません。特に○○〇党、野党などはとくに、また、官僚は国民の行政をどのように思っているか。日本国の為に、国民の為にとか道徳心はないのか。先人たちはこの国を良くしようと努力をしたのに、今の政治家、官僚には御身だけしか考えないと思うのは私だけですか。

大事にしょう。この国を!!

 

人の心と我が家

2018-04-13

人の心と我が家    -日本人の文化と伝統-

 つい3年前の事件、もうお忘れた人も多いと思います。○○県のある女子高校生が同級生殺人を起こしました。この事件の悲劇をどのように思われますか? 当時の報道では、加害者は小学生の時から勉強が良くでき、また、スポーツの出来る子供と言われています。なぜ、同級生のお友達を殺害したのか?報道だと「人を殺してみたかった!」また、「人を解剖したかったから!」この少女は前もってホームセンターで刃物やノコギリを買っていての犯行と報道されています。なぜ、このような惨事になる前に家族やご両親は気が付かなかったか?報道の中から聞けば、近所でも評判の良い子だったようです。

私は思うのですが、この子は小さい時から布団に寝てそれも川の字に寝ていればこのような惨事を起こさなかったかもしれません。幼くして甘えること、泣くことなど、そこにはすぐに親兄弟が手を出してくれるはずだからです。もれも愛情いっぱいの生活を送れたはずです。両親や家族は自分を大事にしてくれることも理解するはずです。私は少年少女の事件がある時いつも思うのです。またこの家にも川の字で寝て居ないと思うのです。この事件の報道からは、お父さんは○田大学出身で弁護士、お母さんは東○大学教育学部出身で、ご夫婦とも教育熱心で、勉強さえできれば良いと言う考えの家庭ではないかと思うのです。

幼い時から家庭は裕福で物を与えられまた、やりたいことは全て与えられ、「我慢」と言うものは与えられなかったのではないか? 私の解釈ですが、小さいころから川の字で寝ると人は肌と肌が触れ合い また、心と心が繋がり人に対しての愛情が出るのです。これも大人になっても人様を大事にすることは同じです。動物も見てください。子育ては常に集団への生き方を教え、また、親と肌と肌が常に触れています。

 

  日本の伝統や文化は西洋の文化とは違うはずです。西洋のイスやテーブル・ベットが入ってきたのは幕末になってからです。近年大半はイスやテーブル・ベット生活する人が多くなり、人と人の繋がりが希薄になり、社会は急速に歪み始めています。イスやテーブル・ベットは、人と人の距離を離す。ただ儀礼的では良いのですが、また、利便性からでも日本人は心と心は繋ぐことはできません。偉そうなことを言えば、教育とは、「ただ知識や技術を教えることではなく、「生きる力」や「我慢」を身に付ける」こと

畳の上で、強く子供を抱きしめてください。きっと良い子に育ちますよ

大事にしましょう。畳生活と川の字、日本の伝統・文化を・・             穴水美樹

 

八王子FM 2018年4月~6月号 投稿より   『八王子FM77.5mh検索 パソコンからも聞こえます』

組織とは

2018-04-07

「組織力」渡部昇一先生の話しから

組織力の名言でイギリスのネルソン総督の『見的必殺』見(けん)敵(てき)必殺(ひっさつ)は話が有名である。「相手が見えたら命を懸けて相手がいなくなるまで戦え」と言う話です。これがネルソン精神、現在でも起業者の志はこのネルソン精神が生き続いています。組織は目的単純が目的で、これが成功の道と言われていまいす。やはりそれには理想主義が根底にあり成功への道ともいわれています。企業は単純明快利益を上げれば良いのです。企業理念 例えば松下幸之助さんの話は水道からコンコンと流れる水は沢山あるから誰が飲んでも盗んでも誰も文句を言わない。自分も水道のようにたくさん作ってやれば皆に行きわたるし安く買うことが出来、また、喜んでもらえると言う発想だったそうです。これが水道哲学として有名な話です。トップは先ず、哲学・理念・使命感 ただ利益だけ追求では周りの人たちが付いてこなくなる。また、参考書だけ見ていると何も生まれないことを忘れてはいけない。自分の信念・哲学が大事である。

松下さんの話の中に多くの人と知り合って、アイデアや特許を取ったときは儲かっているが、次の商品開発を疎かにし、大抵倒産してしまう人が多い。松下さんは次の開発努力を惜しまなかったという事です。ようは色々な解釈はどうでもいい、単純明快にここぞと決めたらまっしぐらに進むこと。トップは常に同じ手や事をならない。トップは明るい人であること、大きなビジョン・目的目標が必要である。また、一つ一つの局面にたいして戦術が必要とされる『見的必殺』見(けん)敵(てき)必殺(ひっさつ)単純明快が必要とされる。周りは動きやすくすること疑惑が起こらないようにする。困難がおきたら次から次へと知恵を出して、また、周りの人を明るくすることが出来るのがリ-ダ-・トップの考えです。

※ ネルソン総督(イギリス最大の英雄とされる) 1758-1805 アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争・活躍。

私の好きな著名人 

渡部昇一先生は、上智大学元教授 (英文学・歴史論・社会論・政治論・古書の収集家など) 保守論客者

昭和5年山形県鶴岡市生まれ平成29年4月17日86歳没

上智大学文学部英文科・修士課程修了 ドイツ留学・イギリス留学

エピソ-ド 

1 蔵書2位 貯蔵書籍15万冊 (現存する著名人で蔵書 立花隆さん10万冊 3位) 2017年度

2 大学時代の成績は常に一番ではなく100点を目指していた (理由は奨学金が欲しくて、100点の上は居ないからという理由と人と争うことが嫌なために、全ての科目を、親からの仕送りが絶えたてきたから、時代は戦後貧しい時代であった) 

3 出版書籍600冊位と言われております。一番有名な本「知的生活の方法」ベストセラ-

 

飛鳥山公園に行ってきました。

2018-04-03

飛鳥山公園(東京都北区)に行ってきました。

当日は「春うらら」多くの人がお花見をしていました。飛鳥山は八代将軍徳川吉宗が桜の名所と仕立上げたところです。江戸っ子たちの行楽の場所で、落語にも飛鳥山が登場します。当時も今も桜の名所は、上野、芝、浅草、深川でもあります。飛鳥山は後に渋沢栄一の別荘として使われ、明治という時代を作り上げたのもこの場所からかもしれません。花見をさて置き、私は3館の資料館に探訪してきました。飛鳥山公園内には、現在は渋沢栄一史料館や紙の博物館、北区飛鳥山博物館として至っております。

   

   

一度は行っては如何ですか!

現在を知る意味で渋沢栄一氏の人生は楽しいです~よ~

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