平泉・中尊寺に行ってきました。
中尊寺の由来、 藤原の初代、藤原(ふじはら)清衡(きよひら)に寄って
建立(こんりゅう)したと伝えられている。金色堂は初代、藤原(ふじはら)
清衡(きよひら)が来世を夢見て寄って建立(こんりゅう)したと伝えられている。
(阿弥陀堂)鎌倉時代に現在の形になったと言われている。
(最初の金色堂は今から900年前に建てられた)
金色堂の今の姿は50年前に修復したのでず。(1970年・昭和43年3月)
金色堂には藤原氏三代(清衡(きよひら)・藤原基衡(ふじはらもとひら)・
藤原(ふじはら)秀衡(ひでひら))のご遺体が納められている。今はミイラ化している。
※ 初代、奥州、藤原家は平安時代(西の平清盛・東の源頼朝・
北の奥州藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら) )
※(源平合戦1180~1185年・平清盛・源頼朝・平清盛に勝った
義経は兄頼朝に警戒され奥州に弁慶と共に逃げる。元々は子供のころに
育った平泉で藤原家の秀衡(ひでひら)の元に救いを求めて行ったが、
後に頼朝に寄って殺される。
※「夏草や 兵どもが 夢の跡」
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
高館にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡は
あとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。
栄華の儚さを詠んだ句です。
続いて芭蕉は中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣し、
以下の句を残しました。
※「五月雨の 降り残してや 光堂」
(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
光堂とは金色堂のことです。あらゆるものを朽ち果てさせる五月雨も、
光堂にだけは雨を降らせず残してくれたかのように、500年経っても
光堂は色あせずに美しいままだ、と詠んだものです。中尊寺には、
芭蕉の像とともに、この句の句碑があります。
- 平泉と松尾芭蕉・奥の細道の句碑
1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良を
ともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の
「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから
500年後のことです。江戸・深川を出発してから44日目、
5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、
藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、
あの有名な句を詠みました。