2022-05-26

 平泉・中尊寺に行ってきました。

 

中尊寺の由来、 藤原の初代、藤原(ふじはら)清衡(きよひら)に寄って

建立(こんりゅう)したと伝えられている。金色堂は初代、藤原(ふじはら)

清衡(きよひら)が来世を夢見て寄って建立(こんりゅう)したと伝えられている。

(阿弥陀堂)鎌倉時代に現在の形になったと言われている。

(最初の金色堂は今から900年前に建てられた)

金色堂の今の姿は50年前に修復したのでず。(1970年・昭和43年3月)

金色堂には藤原氏三代(清衡(きよひら)・藤原基衡(ふじはらもとひら)・

藤原(ふじはら)秀衡(ひでひら))のご遺体が納められている。今はミイラ化している。

※ 初代、奥州、藤原家は平安時代(西の平清盛・東の源頼朝・

北の奥州藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら) )

※(源平合戦1180~1185年・平清盛・源頼朝・平清盛に勝った

義経は兄頼朝に警戒され奥州に弁慶と共に逃げる。元々は子供のころに

育った平泉で藤原家の秀衡(ひでひら)の元に救いを求めて行ったが、

後に頼朝に寄って殺される。

※「夏草や 兵どもが 夢の跡」

(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

高館にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡は

あとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。

栄華の儚さを詠んだ句です。

続いて芭蕉は中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣し、

以下の句を残しました。

※「五月雨の 降り残してや 光堂」

(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)

 光堂とは金色堂のことです。あらゆるものを朽ち果てさせる五月雨も、

光堂にだけは雨を降らせず残してくれたかのように、500年経っても

光堂は色あせずに美しいままだ、と詠んだものです。中尊寺には、

芭蕉の像とともに、この句の句碑があります。

1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良を

ともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の

「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから

500年後のことです。江戸・深川を出発してから44日目、

5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、

藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、

あの有名な句を詠みました。

 

 

 

 

 

お問い合わせ
Copyright© 八王子の家庭用畳専門店 あなみず All Rights Reserved.