新聞の投書が面白い!!
私の父は必ず南側の廊下で正座して新聞を読む癖がある。それも座布団なども引かず読んでいたのを思い出す。家の仕来りとは言わないが新聞を読む順番が有り、先ず父が一読する。長男が読み始め、次に二つ上の兄が読み始め、私までには数十分掛かってしまう。待って居る間は何をして待っていたのか定かではないが、当時の新聞は全ての漢字にはルビ(ふりがな)が振ってあったが、私が読むのは決まってテレビ番組と四コマ漫画を見ていた。 新聞の内容には興味もなかった。今から六十数年前のことである。新聞にはもう一つの思い出がある。年を重ねた青春時代に各新聞社のフォント「活字、字体」に興味を持ち、活字、字体を調べることが面白かった。それぞれの新聞社にはフォントに特徴あり、活字だけで見てどこの新聞社か判断出来たが、今は購読の一社のみである。
近年の新聞を読んでいても信ぴょう性が感じられない記事が見える。そう思うのは私だけだろうか。でも新聞が好きな私は読者の投書欄や書籍の新刊、文庫、映画など趣味の記事を読むのが好きで毎日が楽しみにしている。それに投稿欄は「日本人の人生観」や、それに日々の生活の中から出る「喜びや悲しみ」などの投稿が多く、読んでいると目に浮かび、目頭が熱くなる時や失笑する時もある。投稿欄は私の人生の見直しにもなり、毎日が楽しみである。
畳の上で大の字になって、自分のこと、周りの人のことを考えてみませんか?!
記 穴水美樹
「町を、きれいに!」
「町を、きれいに!」
数ヵ月前こんな事件がありました。展示車が良く見えるように除草剤を蒔き、樹木が枯れ事件になりました。私にも幾分ながら気持ちが分かります。私の店先は毎年、十月頃から落ち葉で困っています。枯葉は時期になると枝から散り落、いくら掃いていても、また散りおちる。一か月以上は毎日のその繰り返し、落ち葉なんか掃かなくてもいいと言う人もいるが私としては掃かずにはいられない。
以前、 たくさんの落ち葉があった日、通勤の人が店先ですべって転んだそれ以来、危険と思い、毎日、掃除は欠かせない朝の仕事にしています。店先は多少の傾斜があり、葉の上に乗ると葉の養分や雨の日は滑りやすくなるのです。また、落ち葉が溜まるとお年寄りなどは雪の上を歩くようにすって歩いている人まで見かけることがあります。街路樹は景観には良いが、こんなこともあることを知って頂きたい。 ・・・落ち葉には注意
もう一つは歩行者のゴミ捨てです。コンビニで買い、歩きながらの飲食です。食べ終わった物や空き缶などをどこでも捨て、時には街路樹の中へ捨てる人までいます。交差点付近のタバコの吸い殻、それと人通りが少ない所などは風で集められたゴミです。ゴミを見て思うのですが、ゴミ袋が有料になってからゴミが多いような気がします。袋があれば食べた後、ゴミは袋に入れ、多少は少なくなると思うのですが、もう一度、コンビニの袋を無料にして頂けないでしょうか。
私も店からの行き帰りはゴミ袋を持ち、ゴミや吸い殻を拾って歩いていますが、中々ゴミは減りません!
ちょと、ゴミのことを考えてみませんか。畳の上で大の字になって?・・・
記 穴水美樹
やめるな、あきらめるな!
やめるな、あきらめるな!
今日は町の職人が居なくなるのではないかと思い、書き出しました。建築業界は3K(きつい・汚い・危険)と言われ離職する人もいますが、最近それに輪をかけたのがテレビコマーシャルでこんなことを目にし、耳にします。「転職は今だ、会社はあなたを待っている。わが社に」人手不足を盾に出し、転職を煽っているように見える社会だ、これでいいんだろうか。それに若い人は人生経験や働く経験も少なく、自分自身の考えや意見が通らなくなると直ぐ辞めて(離職)してしまう。職人の世界も同様で、技術的基礎が大事であるがそこまでいかずに辞めてしまう。
老婆心ながら一言「人生は忍耐と我慢」だ。人生は思い道理にはいかないのが当たり前である。将来のこと、結婚、子育て、親のこと等々、要は、仕事を辞めるほど簡単なことはない、でも頑張った人は必ず楽しい将来が待っている。
世の中には忍耐強く頑張っている人がいます。例えば、プロスポーツの選手になる為、暑さや 寒さの中で過酷な練習をして、誰に褒められることがなく、人の何十倍か努力して目標に向かっている。一握りがプロになり、大半は社会に入って普通の人として生きる。忍耐強く頑張って来た人ほど、何事にも努力をし、魅力を感じる。それに周りの人まで喜びを与える。農業(お百姓さん)や職人も同じことが言える。作る喜び、喜んでもらう喜び、最後の最後は他人には分からない自己満足の喜びもある。
若者よ「何事においても、やめるな、あきらめるな!」
考えてみませんか、畳の上でゴロンとなって、喜びある人生を、笑える人生を?
記 穴水美樹
あの人に会いたい。
あの人に会いたい。
蒸し暑くなると思い出すのがお盆です。私が働いた所は7月13日からお盆です。6月末頃から畳替えの依頼が多くなり、特に新盆の家などは早めに依頼され、入梅が明ければよいのですが明けない時には家の作業場に持ち込み、作業場は蒸し暑く下着を何回も替えた思い出があります。当時畳替えはお客様の家、庭先や道路でやるものが普通ですから家の中での仕事は、真冬以外は少なかったのです。
お盆は旧暦7月13日、新暦でも7月13日、8月13日を中心に、祖先の供養をするのがお盆です。盆棚を作り、季節の花や果物、野菜をお供えします。また、きゅうりで作った馬,ナスで作った牛を祖先の霊を乗せ、迎え火を焚き、家の前や玄関先に祖先が迷わないように目印にします。お盆の三日間は食事を毎食供え、僧侶をお迎え読経を行う習慣があります。16日の夕方には送り火を焚きご先祖様が無事帰られるように線香などを備えることが昔からの習慣であります。処によると送り火の日は精霊流しや大文字焼などをするところもあります。またお盆の供養と言えば盆踊りや花火もあります。花火や盆踊りはお盆と同じように祖先の霊の供養と言われています。それに花火大会などは、いろいろな災害や事故などで亡くなった人達の供養とも言われています。
「お盆は、祖先や大切な人を偲ぶ為のものです。 敬意を込めて手を合わせましょう。」
「大事にしたい、日本の伝統としきたり」
畳の上で大の字になって、この世を去った身近な人のことを考えてみませんか?・・・
記 穴水美樹
春を待ちわびる
私は元来早起きです。寒い寒いと言っていた二ヶ月前は星空やお月さんが輝いていましたが、三月に入り春一番が過ぎ、夜明けが日に日に早くなり嬉しくなります。初春のなま暖かい風が肌に触れ、木々の芽が膨れ始め、目の下には若草、回りを見渡すともう春のようです。待ちわびた自分にとっての春はこんな風景、子供の時と同じように嬉しくなってしまいます。
日本にはお彼岸の日は祖先の供養、お墓参りをする風習があります。墓地の近くには必ずと言っていいほど桜があります。最近では異常気象の為か春分のころ桜が咲く所もあります。桜は咲きほこっても一週間位で散ってしまいますが梅の木は咲き終わるまで五十日ぐらい咲きほこっていると言われています。どちらにしても春の花はいいものです。
桜と言えば花見、昔の花見に欠かせない食べ物、三色団子があります。お花見と団子には意味や歴史があると言われています。そのだんごには桜色は春を表し、白色は雪の色を表し、緑色は若草の色を表すと言われています。平安時代、貴族が桜を見ながら詩歌を詠み また、宴を楽しんでいました。江戸時代になり庶民にも桜見物が一般化し、花見団子や桜餅などを持ち寄り宴が始まりました。
寒くて辛い冬、桜餅や団子には春を待ちわびた人々の喜び色や形を表した日本人の伝統と文化があります大事にしたいものですね。
畳の上でゴロンとなって祖先のこと昔のこと、考えてみませんか?
記 穴水美樹
日本のしきたり
新年あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い申し上げます。
昔の暮れの話しです。畳屋さんと言えば毎年九月ごろから大晦日までは忙しい時期です。障子や畳など綺麗にして新年を迎えるのは当たり前の時代でもありました。朝早くから夜遅くまで仕事に追われ辛かったことを昨日のように覚えています。正月が近くにつれ誰しもがウキウキしていたことを思い出します。
当時はどこの家でも「おせち」を作るのが当たり前の時代、商店の店先には多くの正月商品が並べられ、人の行き来は道幅いっぱいになり人が溢れたことを思い出します。特に八百屋さん魚屋さん乾物屋さんなどの店先はとても忙しかったことを思い出します。「おせち」を作るには時間の掛かるもの、炊く・焼く・煮ると言った各家々の作り方の違いがありました。そう云えば父方母方など「おせち」の味の違いがふと記憶の中に残っています。朝から煮込んでいる匂いや、まな板の音、魚を焼いているけむり、外仕事をしている私にはその情景が嬉しくて、嬉しくて、正月がそこまで来ているんだなぁと思ったことを覚えております。大晦日は、午後三時過ぎまで仕事をしてそれから大掃除でした。疲れ果て、目を擦りながら遠くの除夜の鐘を聞きながら親方と兄弟子と近くの氏神様に初詣に行ったことを思い出します。
昔から日本人は、新しい年に向けての節目として「青畳」と「おせち」を大事にしてきましたね。それに「穏やかで、豊かな人生」のねがいは初詣ですね。
記 穴水美樹
虫の声と竈(かまど)
秋の季語は、月・秋の虫・紅葉・秋の果物・秋の七草・秋の夕日・秋風・台風(野分・のわき)・高西風・鮭颪(さけおろし)・雁渡し(かりわたし)等など数百年の時間をかけて日本人のこころを表した秋の 言葉だろう。
ところで、今年の夏はとても暑かった。例年とは違いコロナ渦、多くの人がかかり憂鬱な時間であった。月が替わるころ鈴虫の声やお彼岸の時期に聞くツクツクボウシの声、気温が下がってアキアカネ、トンボが飛び回り、夜になると一段と虫の声が高鳴り、夏の夜空と違い段々と透き通っていくように見える月、やはり秋はそこまで来ていると肌で感じることが出来る。こんな初秋から晩秋にかけて私には寂しくて辛い思い出がある。
遠い昔、小学生3・4年生頃だったと思う9月の始業式も終わり、お日様が日に日に短くなって行くことを覚えている。実家は農家で、当時の百姓は薄暗くならないと家に帰ってはこなかった時代。末っ子の私には家の中の用事が言い与えられ、洗濯物の取入れから始まりお風呂沸かし、牛や鶏の餌やりなど大変だった。時間が過ぎ外は暗くなり「ベソ」をかきながら一人寂しく家族みんなの帰りを待ちわびた。両親と兄達が帰ってきた時は嬉しくて、嬉しくて泣きたいほどであった。母の手料理が始まると竈から白い煙が出て、嬉しさと煙で涙目をこすりながら、ほっとし、安心したのを思い出す。
あの秋がなつかしい。
秋の夜長、畳の上でゴロンとなって家族のこと考えてみませんか?
日本人にとって大事なものは【畳】と【情緒】ですね!!
記 穴水美樹
「コザッパリ」
夏の暑い時期になると必ず思い出すことがあります。昔から建築関係の職人は大体が外仕事でした。当時の私の作業着は肌着(半袖か長袖) たまにはその上に半纏、ズボンは乗馬ズボン、足袋は七枚こはぜ、それに草履、出仕事ですから肌着や手ぬぐい、それに足袋数枚持って出かけるのでした。汗びっしょりになるとその都度、着替えお客様に汗臭い姿を見せてはいけない習慣がありました。手ぬぐいは鉢巻にして目に入る汗を止め、常に腰に巻き付け何枚か用意をしていた時代です。当時の職人の口癖は「ボロを着ててもいいがコザッパリしていな」要は、古着でいいから清潔にしていることが大事と言われました。当時の私も洗濯はコマメにしていたことを思い出します。
豆知識
日本の暑い夏、湿度も高くなりジメジメした嫌な季節になります。部屋の空気を動かしていますか。締めっぱなしの部屋はカビや悪臭の元になってしまいます。特に日本は高温多湿、昔の家なら屋根が大きく部屋全体を開放して風通し暑さをしのぎ、行水や水風呂なので過ごすのが日本の夏の姿だった思います。現在は気分よく過ごすにはエアコンの温度を下げ、部屋全体の空気を動かす。それには扇風機を使い風作り、部屋の空気が動かせば快適になりカビや悪臭などは出てきません。気密性の高い現在の家は空気を動かすことが一番大事です。
暑い日本の夏、「寝ゴザ」の上でゴロンとなって考えてみませんか?
日本人にとって大事なものは【畳】と【情緒】ですね!!
岩手に行ってきました。 毛越寺 6/6
毛越寺の由来、奥州、藤原の初代、藤原(ふじはら)清衡(きよひら)・
二代藤原基衡(ふじはらもとひら)・三代藤原(ふじはら)秀衡(ひでひら)が
莫大な資金(金が多く出た)を集め京都からの客人の為に造ったと
言われている。何回かの火事で焼失しまう。
平安神宮を真似たものとして作り上げた。
毛通寺の浄土庭園は平安末期の庭園で日本最古の庭園であると
言われている。また、曼荼羅(まんだら)あの世のものとして
伝えられている。(現生とあの世を見出していると言われている)
岩手に行ってきました。中尊寺 5/6
平泉・中尊寺に行ってきました。
中尊寺の由来、 藤原の初代、藤原(ふじはら)清衡(きよひら)に寄って
建立(こんりゅう)したと伝えられている。金色堂は初代、藤原(ふじはら)
清衡(きよひら)が来世を夢見て寄って建立(こんりゅう)したと伝えられている。
(阿弥陀堂)鎌倉時代に現在の形になったと言われている。
(最初の金色堂は今から900年前に建てられた)
金色堂の今の姿は50年前に修復したのでず。(1970年・昭和43年3月)
金色堂には藤原氏三代(清衡(きよひら)・藤原基衡(ふじはらもとひら)・
藤原(ふじはら)秀衡(ひでひら))のご遺体が納められている。今はミイラ化している。
※ 初代、奥州、藤原家は平安時代(西の平清盛・東の源頼朝・
北の奥州藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら) )
※(源平合戦1180~1185年・平清盛・源頼朝・平清盛に勝った
義経は兄頼朝に警戒され奥州に弁慶と共に逃げる。元々は子供のころに
育った平泉で藤原家の秀衡(ひでひら)の元に救いを求めて行ったが、
後に頼朝に寄って殺される。
※「夏草や 兵どもが 夢の跡」
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
高館にのぼってあたりを見渡すと、藤原氏の栄華の痕跡は
あとかたもなく、ただ夏草が茂る風景が広がるばかり。
栄華の儚さを詠んだ句です。
続いて芭蕉は中尊寺を訪れ、美しい金色堂を参詣し、
以下の句を残しました。
※「五月雨の 降り残してや 光堂」
(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
光堂とは金色堂のことです。あらゆるものを朽ち果てさせる五月雨も、
光堂にだけは雨を降らせず残してくれたかのように、500年経っても
光堂は色あせずに美しいままだ、と詠んだものです。中尊寺には、
芭蕉の像とともに、この句の句碑があります。
- 平泉と松尾芭蕉・奥の細道の句碑
1689年3月27日(新暦5月16日)、松尾芭蕉は門人の曾良を
ともなって、江戸から東北・北陸へ600里(約2400km)、150日間の
「おくのほそ道」の旅に出ました。奥州藤原氏が平泉で滅亡してから
500年後のことです。江戸・深川を出発してから44日目、
5月13日(新暦6月29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、
藤原三代の栄華の儚さと義経の最期を偲び、
あの有名な句を詠みました。
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